境内のご案内

大願寺境内

明治時代に神仏分離となるまで、東側の塔の岡から西側は経の尾あたりまでを境内地とし、五重塔や千畳閣、多宝塔を含め「嚴島伽藍」と呼ばれていた。

大願寺境内

明治時代に神仏分離となるまで、東側の塔の岡から西側は経の尾あたりまでを境内地とし、五重塔や千畳閣、多宝塔を含め「嚴島伽藍」と呼ばれていた。

山門

SANMON

江戸時代元禄(1688~1704)年間に建造と伝わります。一間の幅(約1.82メートル)でニ階建ての造りになっています。両脇に仁王像を安置しますが、こちらの仁王像は明治初期に、要害山(現宮島フェリー乗り場目の前の小高い丘)にあった仁王門から移されました。その証拠に、中央の屋根は瓦葺なのに対して、両脇の仁王像の上の屋根は銅板葺となっており、後に増築された様子が伺えます。

嚴島龍神

ITSUKUSHIMA RYUJIN

嚴島弁財天のお使いとされる宇賀神を嚴島龍神として祀ります。宇賀神は嚴島弁財天の頭上に乗り、頭は人で身体は蛇という異形のお姿です。当寺では本堂内にて弁財天を祀る傍らに宇賀神像を安置しておりましたが、先代住職真栄の代、昭和62年により多くの方に参拝していただけるようにと現在の様に境内に社を構え安置いたしました。

護摩堂

GOMADO

平成18(2006)年に落慶しました。かつて、明治初期まで境内にあった護摩堂をおよそ140年ぶりに再建したものです。堂内には、総白檀の一丈六尺の不動明王を祀ります。後背の火炎は松の木で、彩色が施されています。不動明王の台座には、珪化木を配します。珪化木とは、古代の地殻変動等で地中に埋もれた樹木が化石化したものを言います。古く不動明王は、瑟瑟座に座すると伝わります。これは大磐石の上に座する様子を示したものであり、その名の如く動かざる様子を示しています。

本堂

HONDO

現在の本堂は、かつての僧房(僧侶が住み込み仏事をする寺務所)の役割を持っていた建物です。現在は島内に現存する堂塔に祀られていた多くの仏像を安置しますが、江戸時代までの様子とは異なります。それまでは僧房としての役割の他、島内に限らず全盛期は九州地方にまで及ぶ寺社仏閣の修理造営するため、多くの大工さんを束ねる大手建設事務所でもあり、修理造営のため全国にて托鉢することを許可され、托鉢によって集まる浄財の運営管理を担う金庫番でもあり、厳島神社への参拝客を迎え、身を浄めるための風呂釜を要し、身支度を整えることができる迎賓館でもありました。

地蔵堂

JIZODO

子育て、延命、水子の地蔵菩薩を祀っています。篤信者の御寄進により建立されました。お堂内の脇には、水子の供養を願う地蔵菩薩が奉納されています。御縁日は毎月24日。

岩国・錦帯橋模型

[Model Bridge]
IWAKUNI-KINTAIKYO

岩国にある日本三大名橋の一つ錦帯橋の25分の1の模型です。寺伝では、明治時代に開かれたパリ万博博覧会に出展された後、明治29(1896)年に岩田三郎左門から寄進されました。非常に精巧な模型として知られ、昭和25(1950)年9月のキジア台風により岩国の錦帯橋が流失した際には、設計図が残っていなかったことからこの模型を参考に再建されたと言います。

勝海舟・木戸孝允会見の間

[Conference Room]
KATSU KAISHU and KIDO TAKAYOSHI

江戸時代末期、第二次長州征伐の時、幕府側と長州側との停戦交渉が行われました。寺伝では、幕府側に勝海舟、長州側に木戸孝允と数名の長州志士と伝わりますが、当時の詳細な記録をたどると、幕府側に勝海舟、長州側には広沢正臣等長州の志士数名で会談が行われたことが知られています。幕末の大きな時代の変動の一場面を垣間見ることができる一室です。

小松内府平重盛
御手植えの松

KOMATSUNONAIFU TAIRANO KIYOMORI
KO OTEUENOMASTU

平重盛公お手植えの松と伝わります。平重盛公は現在の嚴島神社を造営した平清盛公の長男に当たります。小松内府の小松とは、京都の六波羅小松第に住まいがあったことに由来し、内府とは平重盛公が務めた内大臣の唐名(中国における官称)に当たります。明治初期に伐採され現在は遺木として境内に安置しています。

平和観音

HEIWAKAMNON

右手に宝珠、左手の蓮華を持つお姿です。ご真言は、オンアロリキャソワカ。石像で全長およそ2.5メートル。六体の地蔵菩薩が周りに安置されています。建立は1994(平成6)年。現在の平和観音像をお迎えする前、原爆の犠牲となった方々の慰霊のため、大願寺境内に陶製の観音菩薩が祀れていました。しかし経年による損傷甚だしく、石像にてそのお姿を新たにされました。原爆が投下された当時の宮島には多く被災された方々が運び込まれ、大願寺にも境内一面に茣蓙がひかれ、その様子は惨憺たる光景でした。そうした当時を知る有志の方が立ち上がり、原爆被災者慰霊のため、戦争の惨禍を二度と起こさないように観音像を再び新たに大願寺の境内にと宮島町内に寄付のお願いをよびかけました。今鎮座する平和観音像はそうした慰霊と平和への願いそのものなのです。

伊藤博文公御手植松跡

ITO HIROFUMI KO OTEUENOMATSU

明治時代初めに伊藤博文公のお手植えと伝わる松がございました。根元から枝分かれし、九本松として廿日市市の重要文化財にも指定され長く参拝の皆様に親しまれてきました。しかしながら、マツクイムシにより令和3年4月に9本全て伐採いたしました。専門家によりますと、およそ30年に亘り年輪が刻まれていないことから平成3年の台風19号によって根が分断され、それ以降栄養不十分の状態が続いていたと見られています。ご参拝の皆様からも惜しむ声を多く頂いておりますが、今現在は皆様に親しんでいただけるような新たなシンボルをお迎えできるよう鋭意模索してございます。