仏像・宝物

薬師如来 (元多宝塔本尊)

もともと嚴島神社の南西に位置する多宝塔内に本尊として奉られていたご尊像です。ご真言は、オンコロコロセンダリマトウギソワカ。多宝塔建立が1523(大永3)年であることから、同時期の造立と考えられます。明治期の廃仏毀釈の混乱の中で、多宝塔の中のご尊像のみ当寺に移されたものです。ご尊像は、他に当寺に伝わる仏様と比べても激しく傷んでいる様子が伺えます。

弘法大師

真言宗の宗祖弘法大師空海の座像です。ご真言は、南無大師遍照金剛。ご尊像は、弘法大師が厄年42歳の時に自らが彫ったと言われ、当寺に厄除け大師と伝わるが詳細は不明。明治期の廃仏毀釈の混乱の中で、島内に奉られていたものが当寺に移されたと考えられます。

十一面観世音菩薩

その名の通り頭頂に十一のお顔を戴く観音菩薩です。ご真言は、オンマカキャロニキャソワカ。当時に奉られる所以ははっきりとわかっておりませんが、明治以前の宮島島内を描いた絵図にはたくさんのお堂が建ち並んでいた様子がうかがえることから、きっとそうしたお堂にお祀りされていたと考えられます。
現在この三体が奉られているお部屋は、
現存する梁の跡や木組から
かつて宮島に訪れた一行の従者や
お付きの方がの控えの支度部屋として
使っていたことが伺えます。
そのお部屋も3体のご尊像が
移ってこられることとなり、
即席の仏間として設えた様子が
残っています。

阿難尊者
(国重文・元千畳閣脇侍)

お釈迦様の十大弟子の内のお一人です。多聞第一といわれ、常にお釈迦様の従者としてお説法を聞いたと称せられます。お姿を拝するに、非常に落ち着いた表情に賢明なご様子が伺えます。

釈迦如来
(国重文・元千畳閣脇侍)

仏教の開祖として実在した仏陀が尊格化されたお姿です。ご真言は、ノウマクサンマンダボダナンバク。右手の掌を表に向ける印を施無畏印と言い、左手を膝元に置き掌を上向きにし与願印を結びます。施無畏とは文字通り私たち衆生の恐れを取り除くこと、与願とは私たち衆生の願い事が成就することを願うことを示しておられます。

摩訶迦葉尊者
(国重文・元千畳閣脇侍)

お釈迦様の十大弟子の内のお一人です。頭陀第一といわれ、苦行を重ね衣食住に執われない修行を行いました。お姿を拝するに、こけた頬と露わになった肋骨などから、その厳しい修行のご様子が写実的に見て取れます。
かつては現在の嚴島神社北東の丘に建つ千畳閣のご本尊として、
千畳閣内に三体揃って奉られていました。
成立年代は、千畳閣が1587(天正15)年に豊臣秀吉が
建立を命じたことから同時期16世紀と考えられます。
安土桃山時代の作風が残る貴重なご尊像として
国の重要文化財に指定されています。

如意輪観世音菩薩
(元護摩堂本尊)

一面六臂と言い、腕が左右3本ずつ、合計6本ございます。その内右手の第一の手をすっと伸ばし頬に添え、頭を少しかしげる「思惟」の相が非常に印象的な仏様です。ご真言は、オンハンドメイシンダマニジンバラウン。成立は室町時代とされています。

厳島弁財天(秘仏)

本堂正面の御厨子の中に祀られておりますが、秘仏として祀られ普段はそのお姿を直接拝むことはできません。年に一度、6月17日にのみ御開帳されそのお姿を拝むことができます。琵琶湖の竹生島、鎌倉の江ノ島と並んで、日本三大弁財天の随一に数えられ霊験あらたかな弁財天として親しまれています。

阿弥陀如来

手に弥陀の定印という印を組む仏様です。ご真言は、オンアミリタテイセイカラウン。弁財天に向かって右手側に脇侍として祀られています。成立は江戸時代とされています。

正面の弁財天と、その両脇に阿弥陀如来と
如意輪観世音菩薩が並んで祀られることは他に類を見ず、
他真言宗寺院で三体の同様の作例もないことから、
大願寺特有の事情により祀られるに至ったと考えられます。
また現在のこの三体が祀られる部屋は、
三方の白壁、天井がすすで真っ黒になり、
天井には排煙口があることから、かつては
炉を構え火を焚き護摩の修法を行っていた様子が伺えます。

以上のようなことから、明治初期の廃仏毀釈の混乱な中、
現在のような形で祀られるようになったと考えられます。

毘沙門天

右手に三叉戟と呼ばれる槍を持ち、左手に宝塔という小さな二重塔を持つ仏様です。ご真言は、オンベイシラマンダヤソワカ。成立は、室町時代です。

薬師如来
(国指定重要文化財)

左手に薬壺を持ち、瑠璃光という智慧の光で我々衆生の病苦を救ってくださる仏様です。ご真言は、オンコロコロセンダリマトウギソワカ。成立は平安時代。国の重要文化財に指定されています。日光菩薩と月光菩薩という二人の菩薩を光背に従え、御厨子の中に三体が祀られる非常に珍しいご尊像です。

不動明王

忿怒の相と言い非常に厳しい表情をされた仏様です。ご真言は、ノウマクサンマンダバザラダンセンダンマカロシャダソワタヤウンタラタカンマン。成立は、鎌倉時代です。
この三体が祀られる仏間は、「持仏の間」として
伝わるお部屋です。
「持仏」とは、念持仏のことを意味し、
個人が私的に拝むための尊像のことを指します。
この部屋の正面に祀られる薬師如来は、
大願寺住職が私的に拝むための念持仏でありました。
そのため、本来は襖で間敷きられ公に公開される
お部屋ではございませんでした。

普賢菩薩
(元五重塔脇侍)

如意と呼ばれる法具を両手に持つお姿です。ご真言は、オンサンマヤサトバン。蓮華座と呼ばれる台座を象に載せておられます。釈迦三尊と称され文殊菩薩と対を為し釈迦如来の脇侍として祀られます。

釈迦如来
(元五重塔本尊)

お腹の辺りで両手を組み法界定印という印を結びます。ご真言は、ノウマクサンマンダボダナンバク。千畳閣と同じく五重塔も本尊として釈迦如来が祀られていました。

文殊菩薩
(元五重塔脇侍)

右手に智慧を象徴する利剣を持ち左手に経典を持つ仏様です。ご真言は、オンアラハシャノウ。蓮華座と呼ばれる台座を獅子に乗せておられます。「三人寄れば文殊の智慧」という言葉があるように、智慧を司る仏様として親しまれています。

現在この三体が祀られている場所は、上段の間というお部屋です。
このお部屋だけ最も上手に当たる部分の床が
一段高くなっていることで大願寺広間の最も上座であることを示し、
来客をもてなす際に使用されていました。
古い日本家屋の設えとして広間には上座・下座が設けられ、
目上の方やお客様をもてなす際に上座にてお迎えをします。
その上段部分に釈迦三尊をお迎えし即席の仏間として
祀った様子を察するに、当時の廃仏毀釈の混乱の様相を
垣間見ることができます。

大仏不動明王(※護摩堂)

忿怒のお顔をされ、右手には智慧を象徴する剣を左手には羂索と呼ばれる縄を持ちます。ご真言は、ノウマクサマンダバザラダンセンダンマカロシャダソワタヤウンタラタカンマン。ご身体の大きさは一丈六尺、およそ4m80㎝の仏像です。密教には、儀軌というお経の注釈書があります。その儀軌によれば一丈六尺の大きさより大仏とすると説かれています。丈六の仏、と表現されることもあります。

平和観音

右手に宝珠、左手の蓮華を持つお姿です。ご真言は、オンアロリキャソワカ。石像で全長およそ2.5メートル。六体の地蔵菩薩が周りに安置されています。建立は1994(平成6)年。現在の平和観音像をお迎えする前、原爆の犠牲となった方々の慰霊のため、大願寺境内に陶製の観音菩薩が祀れていました。しかし経年による損傷甚だしく、石像にてそのお姿を新たにされました。
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賓頭盧尊者(※2体)

本堂の軒先に、二体お祀りしております。仏教の開祖、お釈迦様のお弟子さんのお一人です。雄弁流暢にして、一たび口を開けば並ぶ者無しと言うほど説法に長けたことから獅子吼第一と称されました。神通力にも通じ非常に優れた仏教求道者でありましたが、この神通力を世の人々に誇示して見せたことをお釈迦様に叱責されたと伝わります。そのような故事に倣ってなのか、日本では堂内ではなく軒先に祀られます。きっとそのことが還って参拝の皆様に手の届く仏様として親しまれるきっかけとなったのでしょう。通称「なで仏」と呼ばれ、自身の身体の病んでいるところと賓頭盧尊者の同じところをなでると除病の功徳があると言われています。

伊藤博文の扁額

初代内閣総理大臣伊藤博文公は、隣県の山口県の出身であり度々宮島を訪れています。その折に、当寺に「嚴島本願大道場」と揮毫を残しています。本願とは、寺社造営のための勧進を主な活動としそれを組織的に統括する職掌のことを指します。大願寺は、聖という、言わば全国を行脚する行脚隊を組織し、この行脚隊に嚴島神社の御神徳あるお札などを持たせ、その霊験あらたかなことを宣揚させたのです。少々俗っぽい表現をするなら嚴島宣伝隊です。
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尊海渡海日記

大願寺の僧尊海が瀟湘八景図屏風の裏に、朝鮮への渡航の様子を記したのが尊海渡海日記です。高麗版大蔵経を求めて渡航する経緯を詳細に記しています。実際のところ、当時の李氏朝鮮で仏教は励行されておらず、尊海の求めた大蔵経はありませんでした。ところが、朝鮮へ渡ってからの李氏朝鮮の役人との交流、特に饗応という歓待を受けた様子など詳細に記されていることから、当時の朝鮮との交流の様子を知ることができる非常に貴重な歴史的史料となっています。

瀟湘八景

天文年間(1532~1555)に大願寺の僧尊海が、当寺に所蔵していた大蔵経(仏教の教えが活字化された典籍の総称)が欠落していることを嘆き、当時の朝鮮の高麗に伝わる高麗版大蔵経を求めて海を渡ります。当時の航海技術での渡航は正に命がけで海賊などの輩から身を守る必要もありました。そこで自らが正式な渡航団であることを証明するため、当時現在の山口県を中心に大きな勢力を持っていた有力守護大名大内義隆から紹介状を授かり、後ろ盾を得ます。
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